群雄割拠の東海地方西三河一帯は、東に今川家が強大な勢力を誇り、西からは新興の織田家が次第に東方に進出するなど、東西勢力の接触点となった。天文十一年、竹千代(後年の徳川家康)は岡崎城主の松平広忠と政略結婚で結ばれた於大との間に生まれた。当時の岡崎は、駿河の今川家と尾張の織田家の間に挟まれ苦境にあった弱小国で、双方の強国の庇護の下にあった。生きのびるための政略で、母の於大は幼い竹千代を残して織田方の城主と再婚し、彼自身は今川の人質にとられることになるが、その途中で織田方に捕らえられ人質となる。天文十八年、父の広忠が没し、7歳で岡崎に帰るが、再び今川の人質となって転変たる運命に翻弄されながら十年の月日が過ぎた。竹千代は元服して元信と名を改め、義元の姪・瀬野を妻に迎えた。永禄三年、上洛の野望を賭け、今川の大軍は尾張に進撃するが、織田信長はこれを桶狭間に奇襲して義元を倒した。ここに元信は初めて今川の勢力下から独立、ささやかながら一国の城主となった。そして織田信長の盟友として乱世に生きる第一歩を踏み出して行くのだった…。